科目別能力評価と団体行動能力評価は分離すべきだ

「体育」ができないと人生終了と思っている人たちの苦悩を改めて目の当たりにして、このように苦しんでいる人が多いこと対して悲しくなったのと同時に、効果的な対策を講じられていない多くの学校に怒りを覚えた。他人との共同作業による「連帯感」(責任と信頼を守り貢献しようとする姿勢) や「競争心」(勝利のために努力しようとする姿勢) の向上を体育という教科に集中して期待し、成績として評価してしまっている今の学校教育にこそこの悲惨な状況の原因があり、すぐにでも改めるべきだと思う。

人にはそれぞれ得意なことと苦手なことがあるので、他人と相対的に評価されて優劣がつけられることは仕方がないことだ。しかし、私の知る限り、体育の授業では他の科目よりも他の生徒がどれくらいの能力を持っているのかが生徒にとっても判り易く、低い評価を受ける生徒にとっての精神的負担が大き過ぎるようだ。

陸上や水泳などの試技は他の生徒と同時に公開された場で行われるが、これは多くの場合において生徒に悪影響を与えているのではないだろうか。自分の能力を相対的に知って悔しさをバネに努力するのは人間の成長にとって大事かもしれないが、それは教師が生徒を一人ずつ別々に評価し、後に匿名の結果発表を公にするだけでも促せるはずだ。運動能力と同じく性格も千差万別なのだから、狙い通りに切磋琢磨に励む生徒もいれば、苦手なことを人に見られたことで必要以上に自覚して深く傷つき落ち込んでしまう生徒だっているのだ。

野球やバスケットボールなどの団体競技にはさらに大きな危険がある。飛んだり跳ねたり持ち上げたりといった基本的な運動をまったくできないという生徒はなかなかいないが、特定のルールの下にある程度の反復練習を必要とする競技でほとんど動けなくなる生徒は多いものだ。勝ち負けや成績が絡むことによって単なるエクササイズやスポーツして楽しめなくなる人は少なくなく、自分やチームの足を引っ張るそういった人間に対して苛々を隠せなくなる。サッカーやバスケなどの個人技の生きる競技では出来る数名の人間がそうでない人間の分まで多く働くことは可能だが、野球やバレーなどのポジションが明確な競技ではそれもままならなく、「穴」の存在がチームの勝敗に致命的に影響する。結果、その生徒は他のメンバーに煙たがられ、「こいつがいるから負けた」・「どうしてこいつがいるんだ」・「こいつなんかいなければ良いのに」という雰囲気がチームに生まれる。本人も自分が足を引っ張っていることをもちろん自覚しているため、そういった雰囲気を敏感に――時には実際のそれ以上に――感じ、落ち込んでしまう。

必要以上に苦手意識を植えつけることでそれはやがて嫌悪感に変わってしまう。嫌いなことに対し、「好きになりたい」と思える人は極少数で、大半は「なるべく関わりたくない」と思うようになる。このような状態では純粋にスポーツを楽しむことなんてできないし、努力しようなんて気も起きてこない。まさに袋小路だ。

“健康な肉体に健全な精神が宿る”という成語は「適度な食事と運動とそれからそれによるストレスの発散が精神的にも良い」という意味であると私は解釈している。よって、遺伝や事故で他人よりも運動能力の低い人もいる中、個人の身体能力や運動能力にあからさまな優劣をつけ、学生としての評価、ひいては卒業後の進路にさえ影響させるシステムには強く疑問を覚える。

また、後に社会に出たときのための現実的な訓練の場として学校を考えたとき、運動能力よりも数学能力や国語能力を使う仕事に集団で取り組むことのほうが多い現在の社会において、体育の授業を通して「連帯感」や「競争心」を教育するのが効果的とはとても思えない。

もしも体育以外の科目、たとえば数学の試験で、生徒にチームを組ませて一つの問題集を早く解いた順に高く評価していく方式をとってみたら何が起こるだろうか。数学を得意とする人間は苦手とする人間に足を引っ張られて苛々するだろうし、苦手とする人間は得意とする人間の足を引っ張って申し訳ない気持ちになる。これがもし成績に影響しないとしても、自分の苦手なことを他人の前で行わなければならないことには変わりなく、時には嘲られ、時には迷惑がられる。やはり体育と同じように、集団評価方式をとったことによってその科目を嫌いになることはあっても、好きになることはなかなかなさそうだ。

結論として、ある生徒の団体行動能力を測る際には、団体行動という科目を新たに設けるか、または部活動・修学旅行・文化祭などの機会を利用して、体育や数学など他の評価軸のある科目とは別にして行うべきだろう。さもなくば、ある科目への苦手意識が他人からの目を意識することによってさらに高まり、やがて嫌悪感にまで悪化し、最悪、人と共同作業することにまでコンプレックスを抱いてしまう生徒が少なからず生まれてしまう。

「社会」には学校・家族・会社・地域など、色々な種類の集団が存在するが、それらはすべて別々の個人が集まることで成り立っている。集団に飲まれて消えてしまわないだけの「個」としての自分を確立させるまでは、子供に対して下手に集団コンプレックスを誘発するような集団教育や連帯責任での評価を行うべきではないと思う。